A Recipe for a Happy Life

日本での幸せライフレシピ

サイゴン

ベトナムを初めて旅した1991年8月、首都ハノイの穏やかさと、商都ホーチミンの高い熱量を目の当たりにした。二晩過ごしたハノイの街にまだ高いビルは少なく、夜は街中が停電。星がとてもきれいだった。一方、資本主義社会を米国から学習済みだったホーチミンは、夜のネオンサインが群れをなしているようで、首都と商都のギャップに言葉を失った。

1975年4月に戦争が終わると、ハノイ政府はベトナム統一の象徴として、サイゴンの市名を「建国の父」から取ってホーチミンと変えた。大方の市民は不承不承従ったが、納得できない人がいたようだ。2005年4月、終戦30年の取材でホーチミンに来てみると、「ホーチミン市○○区△△サイゴン××」と堂々、昔の市名を書いた商店の看板をいくつも見た。

その後、市人民委員会は正確な住所を表記するよう、商店主らへの指導を強化し、いまでは「サイゴン」という固有名詞は、地名としては絶滅しつつある。

ところが、商店の名前、屋号となると話は別で、いまでも「サイゴン・ブティック」とか、「ミス・サイゴン」とか、自分の生まれ育った街を店名に堂々と残す市民は少なくない。こうしたねじれについて、ある政府高官(北部出身)は2005年当時「地名からサイゴンを外すことは絶対に譲れない」としながらも、「店の名前は、市民の気持ちが表れるものだから、あまり厳しいことを言うべきではない」と話していた。

そういえば、メコンに注ぐ大河はサイゴン川だし、タンソンニュット空港の認識用3レターコードは、サイゴンを意味する「SGN」だ。

戦後半世紀になんなんとして、もはや戦争の傷跡のようなものは、目の前にはない。でも、ハノイとホーチミンとの文化的、精神的、構造的な違いは厳然とある。

ベトナムの標準語は、ハノイを中心とした北部の言葉だ。国営放送VTVでアナウンサーらが使う標準語の中の標準語「VTVボイス」も、北部の言葉がベースとなっている。例えば、北部の言葉で日本語で言うところのザ行(ザジズゼゾ)にあたるものは、南部ではヤ行(ヤユヨ)やジャ、ジュ、ジョと変化する。伝統衣装「アオザイ」は南部でアオヤイとなるし、揚げ春巻き「チャー・ゾー」は南部でチャー・ジョー(チャー・ヨーとも)と変わる。

ややもすると、南部の人は北部なまりを日本語になぞらえ「まるでズーズー弁やないの」と小馬鹿にし、北部の人は南部なまりを「しっかり発音できねーのか」と毛嫌いする傾向がある。

筆者がハノイで暮らしていた頃も、ホーチミンのブティックに就職したハノイ生まれの女の子が、職場でいじめに遭い、1カ月で退職したことがあった。その逆に、ホーチミンの若者がハノイでいじめられて大変だ、という話もよく聞いた。原因の多くは、言葉の壁だったという。

でも、変化はある。

東京都内でベトナム料理店を経営するニューさんは北部バクニン省出身、妻スォンさんはチャキチャキの「サイゴンっ子」だ。日本で知り合った2人はいま仲良く、南部料理を客に振る舞い、子育てに励む。亭主をしっかりと尻に敷き、包丁片手にテキパキ指示し、「早くコロナ禍が終わらないかしら、ね」と客に微笑むスォンさんは、慈母のような顔つきだ。この店でかつてアルバイトをしていたハノイ生まれの女性も、南部メコンデルタ出身の若者と婚約した。「精神の南北分断」は、自分たちの幸せに何の意味もないことを、若い世代はとっくに気付いている。

サイゴン川の前に立つホテル・マジェスティックは戦争中、作家の開高健さんら多くの日本人が投宿したり、情報交換の場にする場所だった。昔はホテル屋上のパブから遠くを見やると、原生林が広がっていた。いまは森がなくなり、マンションやビジネスタワーが林立している。コロナ禍がひどくなる前だが、ハノイ生まれの若い女性が、マジェスティックに近い高層タワーで彼氏からプロポーズを受け、めでたく婚約となった。南北融和に若者たちのエネルギーは欠かせないようだ。

サイゴン川からマンション群を臨む(2019年1月/筆者撮影)

トップ画面:商都ホーチミンのシンボルのひとつ、ホテル・マジェスティック(2019年1月/筆者撮影)


のじま・やすひろ 新潟県生まれ。元毎日新聞記者。経済部、政治部、夕刊編集部、社会部などに所属。ベトナム好きが高じて1997年から1年間、ハノイ国家大学に留学。2020年8月、一般社団法人日越協会を設立。現在、同協会代表理事・事務局長。https://www.nhatviet.jp/

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