A Recipe for a Happy Life

日本での幸せライフレシピ

ベトナムの気候風土

東京・秋葉原がまだ、アイドルやフィギュアの聖地になる前のころ、とある有名店の社長さん(当時)がしみじみ語っていた。「私たちは、ずいぶんと松下さんに助けていただいた。自分だけでなく、みんなで幸せになろうという哲学があったし、人を見る目が確かな方だった」と述懐していた。松下電器産業(現パナソニック)の創業者、松下幸之助さんのことである。

その松下さんは生前、「歴史と気候風土によって育まれ培われてきた日本の国民性はどういうものであるかを考えていくことが大切」と語っている。こと日本人に限らず、ベトナム人のメンタリティーを探るうえでも、松下さんの言葉は重要なヒントになる。

確かに、長く続いた戦乱や中国からの影響を受け続けた歴史と、豊穣なるメコン、紅河の両デルタからの恵みや高温多湿の気候を考えずして、ベトナム人の何たるかは理解できない。

ベトナム女性のしたたかさや、「越南版阿部定事件」の頻発については、小欄「恋愛 vol.1」でご紹介した通りだが、男性も実は女性に負けず劣らず、まっすぐで意志の固い性格の人が多いように思う。

4年前の夏、かつてハノイのライフル銃部隊で米軍爆撃機を迎撃していた男性医師は「たとえ原爆を落とされても、我々は降伏しなかっただろう。だって、攻められたのは我々だ。出て行くべきは、米国ではないか」と勇ましく語っていた。ハノイの恩人に紹介され、一緒にビアホイ(地ビール)を飲んでいたときの話なので、医師は多分にアルコールの力も借りていたかもしれない。ただ、ベトナム戦争中、北ベトナム政府が国際社会に一貫して訴えていた主張がまさに「米国は出て行け」だった。

ベトナム戦争は結果的に、北が南を制圧する形で終わった。同胞同士の雌雄を決した最大の理由は、北と南の風土が大きく影響したと言われる。ハノイで生まれ育った元政府幹部からかつて聞いた南北の市民性の違いはこんな感じだった。

◆南部
「母なるメコン」を抱える南部の人は、食べ物に困ることがない。そうなると、自然に人間ものんびりしてきて、争い事を好まなくなる。年がら年中暑い気候だし、四季がないので、集中力も続かない——。

◆北部
中国に攻められ続けた北部人の気質は、警戒心が強くてとっつきにくい。さらに、夏暑くて冬寒い内陸性気候の影響もあってか、心を強く太く練られ、我慢強い人間ができる——。

「本来、こんなに人間性が違っていたら、戦いは成立しない。南の人はおっとりしすぎていて、兵隊の統率は効かないし、私たち北の人間とは違い過ぎた」。手前味噌をかなり通り越しながら、元政府幹部はそう締めくくった。

実際、北部にもグータラ亭主やフレンドリーな人はごまんといるし、南部にだって癇癪(かんしゃく)持ちや敏捷で抜け目ない経営者も大勢いる。ただ、この20年ほどで、北と南の経済的、文化的な融和が進み、市民性の違いは上手にブレンドされてきたように感じる。例えば。

ホーチミン市中心部の商店の看板には戦後しばらく、街の旧名「Sai Gon」(サイゴン)の文字が残り、意地を張り通す市民が少なくなかった。それが、行政の指示もあり、いまは正当な理由(人名などの固有名詞)が存在しなければ表記できないそうで、サイゴンっ子たちに言わせれば「ま、それでもこの街は、サイゴンだけどね」と開き直りつつ、お上の言うことを「聞いてあげる」のが一番賢い所作のようだ。

近代以降、フランス、日本、米国と否応なしに付き合わざるを得なかった歴史の中で、サイゴンっ子は、お上との上手な付き合い方を学んだ。それを横で見ていたハノイっ子も、国際的商慣行や価値観の相違を認める術を覚えた。この頭の柔らかさを、そろそろ私たち日本人も身に付けなければならない時期に来ている。この国の未来を考えれば、なおさら、そう思えてならない。

◆トップ写真:
朝から気温がグングン上昇した12月のハノイ市内。花売りの女性がせっせと花に水をかけていた(ハノイ市内で2018年12月、筆者撮影)


のじま・やすひろ 新潟県生まれ。元毎日新聞記者。経済部、政治部、夕刊編集部、社会部などに所属。ベトナム好きが高じて1997年から1年間、ハノイ国家大学に留学。2020年8月、一般社団法人日越協会を設立。現在、同協会代表理事・事務局長。

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