A Recipe for a Happy Life

日本での幸せライフレシピ

ベトナム人の口コミ

ベトナム人と付き合っていると、とんだジョークで一杯食わされたり、腹の底から笑わされたりすることが、ままある。特に、男女の艶話や恋バナは年齢と性別を問わず大好きな国民性だし、戦乱や貧困を笑い飛ばして耐え抜いてきた歴史も、陰に陽に影響しているのか、とも思う。

ハノイで暮らしていたころ、なじみの弁当屋があった。ペンシルビルの1階にあり、鶏肉をご飯の上に乗っけた「コム・ガー」が絶品だった。そこの従業員のおじさんがある日、突然、妙な話をふっかけてきた。

「これからランちゃんが来るぞ! おれは知らんぞ!」

ランちゃんとは、弁当屋で働く女性の友人で、顔と名前は知っていた。前号第18回「アオザイ」で紹介したアオザイ・ガールも同名のランだったが、ベトナムではポピュラーな名前である。おじさんはニヤニヤしながら「さっき聞いたけど、ハノイにあんたの子どもが3人、ホーチミンに2人いるそうじゃないか!」。最初に筆者の子どもを産んだランちゃんがそれを聞きつけたそうで、事実確認(要は、カミナリを落としに)のため、これからこの弁当屋に乗り込んで来るのだという。

すべてが初耳だった。自分の子どもがハノイとホーチミンに計5人もいて、さらに、ランちゃんと筆者がそういう仲になっているとは! 当の筆者がまったく知らなかった。

ここで「冗談じゃねーよ!」なんて声を荒げてしまうと、「ユーモアセンスのないヤツだ」と足元を見られ、下手をすると市場での値切り交渉にも影響する。ベトナムでベトナム人と暮らしていくためには、冗談には冗談で、笑いには笑いで応える「知的瞬発力」が必要だ。

で、筆者はこう答えた。

「おじさん、それは作り話だ。2人じゃない。サイゴン(現ホーチミン)におれの子どもは3人いるんだ」

弁当屋中が爆笑に包まれた。返す刀で「ところで、そんな話を誰から聞いたんだよ?」と聞くと、おじさんはニヤニヤしながら「うん、聞いたんだ」と言うだけで、ネタ元を明かさなかった。結局その日、ランちゃんは弁当屋にやって来なかったし、身に覚えのない愁嘆場が展開されることもなかった。

下世話であっても、腹の底から笑えるジョークは、人間関係の潤滑液になる。ところが、一度だけ、とんでもない話を聞かされ、確認作業に奔走させられたことがある。

カフェでコーヒーを飲んでいたら、ウエートレスの女の子たちが国際政治の話をしていたので、「何がどうしたってんだい?」と横やりを入れた。すると「アメリカの大統領がやってくるんだって」と言うではないか。

当時はベトナム戦争終結(1975年4月)からまだ20年ちょっとで、カンボジア侵攻を理由として、米国はじめ主要国の経済制裁が影響し、ベトナムは世界の最貧国の仲間入りをしていた。アジア通貨危機の直後でもあったので、ベトナムから有力外資企業がどんどん撤退を余儀なくされていたころである。そんなタイミングで、米大統領が終戦後初めてベトナムにやってくるという。にわかに信じられなかった。

ウエートレスたちに話の出所を聞くと、「みんな知っているわよ。なんで知らないの?」と全員、すました顔でいる。一応プロの新聞記者(当時)としてはとことん焦り、当時の取材先に片っ端から裏取り取材をした。でも、結局、真偽のほどは分からずじまいで、新聞、テレビでも確認できなかった。

当時の米大統領は、ビル・クリントン氏。実際、それから2年後の2000年11月、ハノイにやってきた。「過去を閉ざし、未来を志向する」とかつての敵国の首都に乗り込んできたクリントン氏は、膠着した米越関係の打開に貢献し、結果的にベトナムの経済再生のきっかけを作ることになった。

「クリントン訪越」情報を政府やベトナム共産党が意図的にリークしたかどうかはともかく、米大統領の外遊情報が2年前に漏れ、しかも、外遊先の市民がとっくに知っていたわけだ。当時すでに電子メールは普及していたが、SNSはまだ影形もない。ベトナム人の口コミの速さと正確さには驚きを通り越し、ただただ脱帽するしかなかった。

下世話な与太話も、歴史的な国際ニュースも、ベトナム人の手に、いや、口にかかれば、こんな具合に料理され、伝えられ、共有されるわけで、つくづくコミュニケーション能力の高い人たちだと思わざるを得ない。

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